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E・ヴォイニッチ『馬あぶ』
中野友加里選手の今季SP曲「ロマンス」はショスタコーヴィチが映画『馬あぶ』のために作曲した一連の曲のうちの一つです。きれいなメロディに対して何とも違和感のあるこの『馬あぶ』というタイトル、英語ではThe Gadfly、ロシア語ではОвод(翻字するとOvod)といいます。この曲が使われた映画自体は未見のため、以下は原作小説について書いています。

2008年7月25日追記:映画については下記を参照。
関連:A・ファインツィンメル『馬あぶ』(Go, Yukarin!)



著者と受容

原作の著者エセル・L・ヴォイニッチ(Ethel Lilian Voynich, 1864-1960)は現在のアイルランドのコーク出身のイギリス人で、1920年以降はアメリカで暮らしました。彼女が初めて書いた小説で、生涯で最もよく知られることになった作品が『馬あぶ』です。この女性作家はロシアや東欧出身者のコミュニティとの交友が深く(夫もポーランドからの亡命者です)、ロシア語も学んだようですが、小説は英語で書かれています。

初版はアメリカで1897年に出ましたが、その人気は次第に英語圏よりも旧ソ連地域でより高くなります。ロシア語訳が出たのは1898年、以降、旧ソ連の多くの民族語に翻訳されました。1928年、1955年、1980年と3度にわたって映画化もされました。このうち、1955年の映画がショスタコーヴィチが曲をつけたものにあたります。

日本語での翻訳は1952年が最初で、次いで1981年に佐野朝子訳『あぶ』が講談社から出版されました。これが完訳版です。このとき底本となったのがロシア語訳でした。このあたりの翻訳の経緯にも、20世紀後半の時点で既に、英語圏よりもロシア語圏(旧共産圏)で支持された作品であったことを、うかがい知ることができます。

残念ながらこの日本語訳は既に絶版になっているため、一般の書店で探すというのはほぼ不可能となっています。読みたい場合は図書館をあたるか、古書店の在庫を探す、あるいは外国語で読む、ということになります。なお、この絶版となった翻訳と作品の粗筋については近藤ほか『絶版文庫三重奏』でも紹介、解説されています。

以下、作品のネタバレが含まれますので、これから読まれる予定のある方はご注意ください。

馬あぶとは

作品の舞台は19世紀、イタリア統一運動(リソルジメント)の時代に設定されています。主人公は、プロテスタントのイギリス人家庭に生まれながら、亡き母と、父のように慕うモンタネッリ神父に大きな影響を受け、敬虔なカトリックとして成長した青年アーサーです。

彼は青年イタリアの地下活動に身を投じますが、モンタネッリの後任としてやってきた神父への懺悔をきっかけに、逮捕されてしまいます。釈放後、仲間を売ったと誤解されたばかりでなく、自らの出生の秘密を知らされ、裏切られた思いで信仰を捨て、彼はイタリアを離れます。13年後、心身に大きな傷を受けて戻った主人公が、幼なじみのジェンマへの純愛を貫きながら、地下活動家として英雄的な最期を迎える、というのがおおまかなあらすじです。

活動家の一人として、アジテーション用のパンフレットに、風刺のきいた文章を書ける書き手を探すにあたって仲間と話す場面で、ジェンマの台詞にこのような言葉があります(引用箇所の日本語は拙訳)。
"So was Athens," she interrupted, smiling;
"but it was 'rather sluggish from its size and needed a gadfly to rouse it'..."

「アテナイでも同じでした」と彼女は微笑してさえぎった。
「でもそれは、その大きさゆえに反応が鈍く、起こすためには馬あぶが必要だった、のですよ」
これが作品中、最初に「馬あぶ」という言葉が登場する箇所です。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスが自らをアテナイという大きな馬を目覚めさせる馬あぶと例えた部分を引用した、彼女のこの言葉を聞いて、仲間の一人が南米から来た男「馬あぶ」の存在を思い出します。

日本語でも「五月蝿い」という表現がありますが、英語のgadflyにも「(権力者にさかんに批判や要求をする)うるさい人」の意味があります。権力者に対して手厳しい文章を書くことからそんなあだ名がつき、自らそれをペンネームに使っている男「馬あぶ」は、顔に大きな切り傷があり手の指を2本失っていて片足に障害のある、生まれや育ちについては謎ばかりの人物として描かれます。実はこの「馬あぶ」こそが、変わり果てたアーサーの13年後の姿でした。

このようにこの作品において「馬あぶ」とは、主人公の偽名を指すものですが、さらに物語の結びにも、fly(英語では羽根がある虫を総称してこのように呼びます;なお、この作品『馬あぶ』についても『馬ばえ』と訳されることがあります)は印象的に登場します。

任務に失敗して逮捕され、銃殺刑に処せられる最期まで、挑戦的な態度を崩さなかった「馬あぶ」の死の後、ジェンマのもとに手紙が届きます。獄中で書かれたその手紙には、幼い頃から変わらず彼女を想い続けていたこと、そして末尾にはウィリアム・ブレイクの詩の一部が書かれていました。
Then am I
A happy fly,
If I live
Or if I die.

ならば僕は
幸せなはえだ
生きていようと
死んでいようと
この「はえ(fly)」はここでは言うまでもなく「馬あぶ(gadfly)」を意味しています。はかない命の虫に託して、この最後の場面でようやく、主人公は「馬あぶ」の正体をジェンマに自ら明かすことになったのでした。

参考:
ヴォイニッチ(佐野朝子訳)『あぶ』(講談社文庫、1981年)
ブレイク(寿岳文章訳)『無心の歌、有心の歌 ブレイク詩集』(角川文庫、1999年)
近藤健児・田村道美・中島泉『絶版文庫三重奏』(青弓社、2000年)

Taratuta, Evgeniya, "Our Friend Ethel Lilian Boole / Voynich" (1957). Translated from Russian by Séamus Ó Coigligh in 2007. Available at Cork City Libraries in PDF.
Woods, Cathal and Pack, Ryan, "Socrates' Defense" (October 12, 2007). Available at SSRN: http://ssrn.com/abstract=1023144.
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by smile_yukari | 2008-07-15 20:15 | 管理人より | Comments(5)
Commented at 2009-10-04 11:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ノムノマ at 2011-08-26 03:30 x
 初めまして『馬虻』の情報が欲しくてググっていたらこちらに漂着しました。
 中国の小説家・史鉄生の『務虚筆記』という小説(原文)で、重要なキーファクターとして『馬虻』の本が使用されているんですが、一体誰が書いたどんな本なのか全く分からず困り果てていたところでした。
 これだけ叙述が整理されていたブログに巡り会えたのはラッキーでした。他記事も、目を通させて頂きます。m(_ _)m
Commented by smile_yukari at 2011-08-26 15:00
『馬あぶ』については書かれているネット上の情報が限られていることもあって、このキーワードで検索してお越しの方が時々あるようです。フィギュアスケートのブログらしからぬ内容ゆえに、過去には「中野友加里ちゃんには、こんなにおそろしいファンがついているのか」(http://shosbar.blog.so-net.ne.jp/2009-12-04-1)と言われたこともあります(笑)。
Commented by smile_yukari at 2011-08-26 15:00
『馬あぶ』はロシアを中心とした旧共産圏ではかなり有名な作品だったようなので(中野友加里さんの振付師もロシア系の方だったのでおそらく小説なり映画なりを読むか見るかされていたと思われます)、中国でもそれに近い状況だったのかもしれません。作者や作品については、もし可能ならば、記事でも参照しているヴォイニッチ(佐野朝子訳)『あぶ』(講談社文庫、1981年)にあたられることをおすすめします。国立国会図書館が所蔵しています。どうやら8/26 14:50時点でアマゾンでも中古で買えるようです。
Commented by smile_yukari at 2011-08-26 15:01
難解と言われる『務虚筆記』を原文で読んでおられるとのこと、すごいですね(自分は中国語はさっぱりわからず、中野さんの中国遠征時は苦労しました(苦笑))。翻訳の出ていない小説を読むのは大変なことも多いですが、そのぶん読後の達成感は比べものにならないものです。最後まで頑張ってください。
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